「私家版・日本おもちゃ名作選」
おもちゃ作家・杉山亮



第1回 「軍配」

軍配は、町でまったく見かけなくなりました。

おもちゃ屋には置いてないし、せいぜい大ずもうの興行のみやげ売り場で買えるぐらいでしょう。

写真の軍配は父からもらったもので、表に「一味涼風」と書いてあります。
ふつうは「天下泰平」で、裏は日と月の形ですから、少々変わり種です。
買わなくとも作る気になれば、木の棒をたてに割って、間にひょうたん形に切った厚紙をさしこむだけなので簡単ですし、実際、うちわで代用して遊んだこともありました。



で、ここでこのおもちゃを名作としてとりあげるのは、ぼくが子どもの頃、やれ、佐田の山だ、栃乃海だと砂場でとっくみあいしていたノスタルジーからでは、もちろんありません。
軍配というおもちゃが、すもうごっこという遊びの中にしめる位置というか距離というか、それが絶妙だと思うからです。

つまり、おもちゃと遊びの関係という話なのですが、たとえば同じスポーツものでも、バットやボールが野球という遊びにしめる位置とは、まったく違います。

バットやボールは絶対必需品で、これがなければそもそも野球は始まりません。ある意味で主役です。

でも、軍配がなくても、すもうはできてしまいます。

人間がふたりいて地面に丸を描けば道具立てはそろうし、行司がいなくとも勝ったか負けたかくらいは、やっている自分たちでわかります。(脱線しますが、すもうの行司には野球やサッカーの審判のような絶対的な権限はありません。きわどい判定には、すぐ物言いがついて「行司差し違い」として、平気で判定をひっくりかえされてしまいます)
行司自体が、いなくてもなんとかなる存在なのですから、その持ち物の軍配がなくてもいいのは当然です。
でも、なくてもいいが、あった方が遊びがゴージャスになるとはいえます。

いいかえると、軍配はバットやボールのような主役ではないけれど、その遊び全体のムードを盛り上げるのには貢献しているという、謙虚な位置にあるわけです。

しかも、軍配が一本あることで、すもう遊びがスポ根路線にいかずに、からくもごっこ遊びの世界にとどまっていられます。
これが全日本学生相撲選手権などというと、中央にこわもての審判員がいて、「勝負一本、始め!」などと、凛とした空気を漂わせ、これはもう、まじめにやるしかない、強いものがえらい、練習したものがむくわれるという、一本調子の世界につながっていきやすいでしょう。

でも、おもちゃ箱の中に軍配が一本あって、一人の子が 「じゃ、おれ、式守伊之助な」などといって、わざとしわがれた声で
「アヤー、ポンポコヤマー、コナター、ヘッコロダニー」
 とやっているうちは大丈夫です。

もちろん、本気で戦うにしろ、ともかくもこれはすもうごっこなのだから、負けた子は負けた力士の役になりきって土俵の土をたたいていれば自己のアイデンティティーはたもたれるし、行司役は行司役で、あまり荒っぽいのは苦手だがみんなといっしょに遊びたいという子が受け持てば、最後に勝ち名乗りを与えるという見せ場はあるし、とにかくいろいろな子がそれぞれに、自分の役どころでワアーワアーとすもうの世界を楽しめることになるのです。

軍配はまさに、すもうごっこのシンボルです。
当然、子どもはおもちゃ箱の中に軍配を見つければ、すぐに
  「今日はなにして遊ぼうかな? おすもうごっこもあるな」
と、メニューを見るように思いだします。
そうやって、こどもをすもう遊びに誘う軍配の、遊びがはじまったあとは主役を生身の人間たちにまかせて小道具のひとつとして脇にまわるあたりの呼吸が、おもちゃの分を守っているというか、実に助演男優賞ものというわけなのです。

そんなおもちゃを経験的にたくさん知っていて、子どもがこれから歩いていくであろう道のそこかしこにさりげなくころがしておくやり方は、ばれれば照れくさいし、マニュアル化してはなにもなりませんが、一種の父親ダンディズムというか、決して悪いものではありません。

気づかれずに終わることも、またがれてしまうこともありますが、それはそれでいいのでしょう。
誘いの隙を自然に見せられるのは、ひとつの極意ですから。



第1回 「軍配」
第2回 「かさね箱」
第3回 「プラレール 」
第4回 「ミラクルボウル」
第5回 「がいこつのカタカタ」
第6回 「クルクルパッチン」
第7回 「花はじき遊び」
第8回 「星ッコロ」

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